生まれてからこれまで出逢った絵画や彫刻、文学作品。
一流の舞台芸術や音楽、建築、寺院、庭園、
名だたる職人の手仕事、宝飾品、お料理、
確たるものをもった人生の諸先輩たち、
美しく四季をうつしだす京都の自然。
そうした「ほんもの」との出逢いが わたしをどれだけ
変えてくれたことでしょう。
けれどもわたしはここまで凄いものをみたことがありません。
宇宙だ、なんて人は簡単に口にするけれど
ほんとうに宇宙をみている人は一体どれだけいるのでしょう。
まさにこれが宇宙・・・
樂家 初代 長次郎の茶碗
この展覧会、樂家十五代のこれまでの偉業が一気に拝見できる
たいへん贅沢なものでした。
それぞれに作風が違い、見所の多い歴代の作品。
人間の営みの崇高さにふれ、どれもが尊いいのちの軌跡と思われました。
けれど 深い深い精神
そして どこまでもどこまでも限りなく果てしない世界
それを感じさせてくれるのは樂家初代、長次郎作品だけでした。
これはすごい・・・
わたしは人生で一度だけ、あの世というものを震えあがるような
畏怖をもって思い出したことがあります。
あの世があるかどうかなんて、生きている人にはわからない。
でも私は生まれる前のじぶんを思い出し、
そして死んだら行くところをどうやらみてしまった。
今となっては それはただの夢だったのかもしれない。
けれども 心底「めざめる」あの感覚は生涯忘れられないし、
けっして忘れてはいけないのだ、と思っています。
生きているうちにそんな世界を思い出せるなんて、とんでもない幸運です。
とすれば、私は普通の人以上に、
善き人生を送る義務があるかもしれないと思うのです。
そして ありとあらゆる芸術のうち この長次郎の茶碗だけが
その「あの世」を感じさせるものだった、ということです。
いえ「あの世」だけでなく「この世」も。
そのふたつを体感するような。
体感する、なんて虚しい言葉では到底表現できないのです。
宇宙の果てしない海にじぶんを浮かべるように感じる。
最近はよく、「頭ではなく身体で感じなさい」なんて言う人があるけれど
そういう人だって、本当にわかっているのでしょうか?
身体で感じる?
それともどこか違う気がする。
とにかく茶碗の世界が彼方まで広がる無限であり、
お茶がどうとか
利休がどうとか
そんなことは今はどうでもよくて
茶碗がわたしや世の中全体を包みこんでいて
そしてそれが宇宙なのだと感じずにはいられない。
言葉とか論理とかでなく、そこにいるだけで伝わる神秘、
無限、畏怖、戦慄。
とりわけ茶碗の奥、見込みをのぞきこむと、深々と広がる未知の世界。
一方で なぜだかわからないけれど
茶碗の佇まい 口縁や胴のすがたに
かわいくてたまらない 慈しむような歓喜が湧き上がってくる。
目に見えないのにみえてくる これは一体なんなのだろう・・・
もしかしたら これが利休が死をかけたものだったのだろうか・・?
京都の樂美術館で拝見したこともある長次郎のお茶碗ですが
あの時から何年かたって、私はこの方の手から生み出されたものを
ある程度わかるまでに成長できていたことを確認し、
生きること、それが修行なのだと思いました。
あまりに有り難い経験でしたので まずは初代の作品だけ漠然と
語ってみました。展覧会のレビューは、またいつか。
この展覧会に興味のある方は今週末までですので
国立近代美術館まで おいそぎください