☆日本語が下手になった理由☆

 

『 花にもの思う春 』

 

日本語を使うすべての人、どんな形であれものを書く人ならば

目を通して損はない一冊だと思います。

白洲正子による新古今和歌集の歌論書ですが

日本の文学や美術、芸能、そして武芸にいたるまで

もっと広げてしまえばすべての職業人の真髄にせまる内容でした。

 

840s-

 

人というのは、年を重ねるほど本質的なものに向かっていくもの。

30過ぎたあたりから、今まで楽しんでいたものではいよいよ物足りなくなり、

クラシカルな世界に近づいていく。サブでは留まっていられなくなって、

苦楽や手ごたえをともなうものにこそ、面白みを感じるようになる。

 

20才のころ、古典の中でも和歌ほどつまらないものはないと思っていた私。

源氏物語も、ときおり歌の部分は飛ばして読んだりしたくらい・・・!

けれども自分の未来なんてわからないもので

今ではどういうわけか、やまと歌に大変惹かれるようになったんですから驚きです。

この本を読み終え、その理由がはっきりとしてきました。

やまと歌、それこそが日本文明の母体だったということです。

日本美のエッセンスであり、そこから物語が生まれ、書が生まれ、

日本画、音楽、能楽、茶の湯・・・・・と、ありとあらゆるものに影響していった。

もしわが国に和歌が存在しなかったら、

わたしたちの生活はここまできめ細かく発展していないでしょう。

 

それにしても、あいかわらずページをめくるごとに賢くなれる本というのか。

白洲正子の研ぎ澄まされた文章を追っていると、こちらの頭も自然きりりと引き締まる。

そして学術論文にはない妙味や余韻。

学者でないと言っても、彼女の場合膨大な知識を持ちあわせていますから

地中深く根をはった上での潔さがまったくお見事です。

 

三島由紀夫さんが、

「新古今集を忘れたから、日本人は日本語が下手になった」

とおっしゃったという。

万葉へ返れ一辺倒の時代に、こう言い切った三島の頼もしさもさすがです。

最近は、簡単に 「自分軸をもて!」なんて言うのが流行ですが、

教養や人間力を高めることなしに軸なんて作られたら、

周りはたまったもんじゃありませんし、本人の末路も哀れです。

大局観がないうちは思う存分揺れたらいいんじゃないでしょうか?

事実、白洲正子ほどの人物でさえ、ぶれない人となるまでに長い長い時間をかけたのです。

 

美輪明宏さんは、日本人は日本語にもっと感謝したほうがいいとおっしゃり

田辺聖子さんは、日本の女が美しかったのは日本語が美しかったせいでは?とおっしゃった。

日本には字でかいた絵のような美しい歌がたくさんあって、

口にするだけで心が浄められたり、華やいだりする表現がたくさんある。

なにより私は「かな」が放つ優美さやぬくもりが好きで、

文章を書くのに漢字を使わず、ひらがなを選択することもよくあります。

現代の作家では、江國香織さんのかな使いがステキだと思っていましたが、

昨年彼女が須賀敦子ファンだと聞いて納得しました。

須賀さんも一時ひらがなだけでものを書いていたそうですから・・・・・

 

子どものころ、お正月に母の友人たちから届く年賀状の筆跡を見るのも好きでした。

だいたい60後半以上の日本女性は、私の世代よりずっと言葉を磨いています。

それも総合的に。

筆跡はするすると流麗で、難解ではないやさしい響きの言葉を選びながら、

才気走ることなく才がほの光り、文字、文脈ともに快いリズム感をもつ。

どうということない内容なのだけれど、読み終えた時、ほのかな香りを残す。

総じて女性らしい美文なのです。

その源はやまと歌にあったんだわ!と今回、思いあたりました。

男女平等だの、論理だ、実学だ、実利だ・・・と追求していくのとひきかえに

現代が失ったものは大きいように思います。

 

新古今集の代表的歌人それぞれの人柄や歌の変遷を追っていると、

ひとつの安堵感がわたしをひたひたと浸していきました。

人は刻々と変わっていくものである、ということ。

若いうちは青かったり、クセが強かったり、しめっぽかったり、奔放だったりと

それぞれ個性強い歌人たちも、晩年は透きとおるような歌境にいたることが多く、

人の一生の貴さに、枯山水の清々しさが思い浮かんできました。

 

それにしても、後鳥羽という人がこんなにも魅力あふれる天皇だったとは!

中学のころテスト前に、「えーと鎌倉幕府と戦って、鳥の羽のように流されちゃった」

なんて失礼な覚え方したもんなんですけどー

後鳥羽上皇の高い見識は現代人に充分通じるもので、幾度も唸りました。

無知は三毒のひとつって言うけれど、ほんとうに学びは大切です・・・・・

 

この文庫はたったの840円ですが

私にとっては何万、何十万円という価値があったと思う。

読む前とくらべ、魂の色もすこしだけ塗りかえられた思いがする。

それも白洲正子という一級の教養人が作品を残してくれていたおかげで、

書物を通して多くの先人たちと語り合い、共感する愉しさを知りました。

本物のよさというのはこういうことで、

本というのは何でも読めばいいというものではないと改めて思います

 

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