上野で長次郎のお茶碗を拝見して帰った夜、
相も変わらずあの樂茶碗が語りかけるものは何なのか?
と、また考えずにはいられませんでした。
清浄無垢でもなく、邪気でもなく、
個性もなく、装飾的美しさもない。
でもどんな芸術よりも格の高いものを発している・・・
考え続けるうちに浮かんだ言葉。
父母未生以前本来の面目。
高校生のとき読んで以来、文豪夏目漱石はちょっと敬遠していた作家。
『こころ』とか『坊ちゃん』みたいに面白いと感じる本以外、
『三四郎』も『それから』もさっぱりわからなかった。
そんなわけで三部作ラストの『門』など読んだか記憶にすらない。
でも、この禅の考案が浮かんだことがなにかの縁である気がして
さっそく門を読み始めてみました。
最近になって、漱石の精神の変遷が気になっていたところでした。
一流知識人の多くが漱石の本を愛読していますし。
この文豪が鎌倉円覚寺で禅の修業をしたことは有名です。
彼が患っていた神経衰弱だって、個人的な悩みが起因ではないでしょう。
その精神に迫ってみたい、とも思いページを開きました。
そうしたら・・・・・
面白い! 示唆に富んでいて手ごたえ抜群!
えー漱石ってこんなに面白かったんだ。
略奪婚の先に幸せはあるのか?って・・・
重い・・・・・
ああ 重苦しいけど怖いもの見たさでずんずん読み進めてしまった。
思えば高校生のころは平凡な日常が淡々と流れる描写など
これっぽちも面白くなく感じたものでした。
奇想天外な事件や、ドラマチックな展開がないなんてつまらないと。
でも超一流の芸術と言うのはそういうもの。
長次郎のお茶碗がまったく個も装飾もないのに際立って抜きん出ているように。
一流中の一流というのは何もないところに宇宙を厳然と見せ付けるものなのでしょう。
で、この門ですが・・・
みなさまは裏切られた経験ってありますか?
わたしはちょっと思いつかないです。
裏切ることも裏切られることも、のちのち大きな禍根を残すほどの経験はない。
ふうー よかったー
・・・っていうのが一番の感想です。
裏切られて憤慨する人は多いかもしれないけれど、
裏切るほうがよほど怖いでしょう。
人間って愚かなもので、だからこそ生きて学ぶ生き物なのでしょうが、
若い頃には気付かなかったことも
年々身に沁みていろんなことが見えてきちゃう。
だからこそ生きることは素晴らしい。し、恐ろしい。
主人公の宗助は親友の内縁の妻を奪って結ばれました。
親友はその後行方をくらまし
その後の消息を聞いた宗助は罪の重荷にひしがれ、心を乱します。
この罪悪感が 彼をどこまでもどこまでも追いかけてきます。
救いを求めて禅寺の門をくぐるのですが・・・・・・
結局悟りなんかそう簡単にひらくことはできず
日常へと舞い戻っていくことになる。
裏切った親友の影はひとまず去っていく。
でもまたきっとその不安と恐怖は繰り返しやってくる。
今後もそれを繰り返す主は天であり、その都度逃げ回るのは宗助・・・・
つくづく、他人にひどいことをされたとしたら
自分がしたわけじゃないことを、ありがたく受け止めたいと思う。
それでなくても人は後悔するようにできていて
あんなこと言わなければよかった、などと、苦しむ生き物なんですもの!
で、この父母未生以前・・・の禅語ですが、宗助はこのとき初めて考えるのです。
こういう問題を。
でも悟れない。
そもそも生まれてこのかた、こういった人生の命題、
人間とはなにか?突き詰めて考えるだけの境遇やら性質が
そなわっていなかった、と彼は思い知るのです。
わたしはこの本を読んで、よかったです。
どこまでもつきまとう因果が重苦しい小説ではありましたが・・・
幼稚園くらいのころから、私は鏡の中をみつめると
わたしはだれ?
などと考えていた子どもでした。
わたしの体の中にいる「わたし」ってどこから来たの?と。
もう少し大きくなると、「人はどう生きるべきなのか?」という思索を
繰り返すようになりました。
学校の教育に人生の指針となる道徳教育がないことを
もどかしく思ったほど。
今になって、その姿勢は間違ってはいなかったのかな?と思ったのです。
わたしが生まれつきどうしても考えずにいられなかったことって
もしかしたらお寺の修行のようなことだったのかもしれない、って。
ちょっと不遜かもしれませんけれど・・・・。
少なくとも宗助という主人公は、青春期にそういったことを
思索する人間ではなかった。
恵まれすぎていたのかもしれないし、もともとの性格なのかもしれない。
でももし恵まれすぎていたのだとしたら
人生における幸運、とくに若い時期の ものわかりのいい親とか教師、
物質的豊かさや、器用な才能、体力などに人一倍恵まれていたとしたら、
それは直ちに幸福といえるのでしょうか?
そんなことを考えさせられました。
「40にして迷わず」といいます。が、実際、きちんと生きていなければ
40にしてますます迷走することでしょう。
不惑というのは孔子の言葉ですが、論語には15にして学に志すとあります。
15才くらいって、不安定で惑うことばかりです。
いえ、ちゃんと悩んで迷わなければいけないのです、
悩まなければ、自分が確立できないでしょうから・・・・・。
でも迷いながらもやるべきことはたくさんあって、
15くらいから志学して人格を磨かなくてはいけないし、
30にして立つくらいのことはしていなくてはいけない。
そんなことを考えさせてくれた漱石でした。
漱石の小説を10年前に読んだときと同じ感想しかもてなかったら
成長していない証拠なんだと聞いたことがあります。
10年後に読む漱石はどんなふうに感じるでしょう?そんなわけで
漱石さんをちょっと研究してみたいなと思い始めた今日この頃です