☆ことばのお稽古☆

 

この秋は万葉の歌にひたりつつ過ごしていました。

いまひとつ雅でない万葉集には関心がなかったのに

なぜ親しみはじめたのか?といいましたら

これは人生の不思議な流れによるのです。

 

028s-

 

おととし、主人の仕事関連の書類を翻訳する作業を

一部手伝ったことがありました。

英語で書かれたエッセイのような文章でしたが

直訳ではなくごく自然な日本語にするのは難しい!と苦心していたので

そういうことなら女性のほうが得意かもしれないと

私が手伝わせてもらったのでした。

 

中学以来、学生生活で英文を訳すことって日常茶飯事でしたよね?

でも大人になって、主婦というのんびりした立場で翻訳するとなると、

より自然に、よりイキイキと、生きた言葉にしたい!

という欲求がとても出てきたのでした。

 

一人しずかに辞書を片手に英文に向き合って、こんな言葉はどうかしら?

もっとすんなりした表現があるはず・・・などと考えていたら

寝食も忘れる状態で、自分すらどこかへ飛んでしまう

透き通るような時間でした。

 

この経験をとおして思いもよらない発見があったのです。

何十年も英語を勉強していながら自覚がなかったことでした。

英語ってなんて自我の強い言語なのか、

そしてなんて区別の多い言語だろう、と。

日本語と英語の構造や感覚の違いがこれほどまでにあったのかと

愕然としちゃったのですね。

 

そんな両者の差をなぞっていく作業を通して思ったことは、

英語にあんまり堪能になったら人格が変わってしまいそうだわ!

素敵な大人であるためにはもっと言葉を磨かなくては!

ということでした。

磨くというよりは「育みたい」という気持ちでしょうか?

そもそも磨くほど豊かな日本語を具えていませんので、わたくしは・・

 

そういう視点で古典をひらいてみると、

とてもみずみずしいものでした。

また、隔ても少ないのです。

現代の日本語も主語を省略することが多いですが

古典はそれがとびきり多いのです。

源氏物語を読む難しさは、綿々と途切れなく続く文章のなかで

いつのまにか主語が変わってしまうことで

敬語の有無や 場面の状況などから察する必要があって

そこが古文を読む難しさでもあり、また古文が秘める豊かさでもあります。

 

比べて英語はどうでしょうか?

ためしに何でもいいですから簡単な英文を直訳してみてください。

直訳です。

なめらかな日本語訳にしないで直訳する。

単数か複数かとか、冠詞や所有格はどうかとか、

主語ももちろんきっちり直訳してください。

 

おそろしく細かいところまで限定された文章だと思いませんか?

つまり欧米人は簡単な発言ひとつとっても

驚くほど自他を区別し、いちいち単数複数を確認し、

所有のありかを明確にするのです。

 

さらには言語に世界観があらわれていると気づきました。

This place has a great atmosphere. (ここはいい雰囲気ですね)

このような場合にhaveという動詞を使うことが

日本人にはどうも違和感があります。

雰囲気というのは、たちこめるようなものであり、

場所ががっちり所有しているものではないんじゃないか?

という感覚があるからでしょうか。

この感覚は、日本と西洋の建築の違いにもあらわれています。

とくに教会と神社の神域の違いを比べれば一目瞭然です。

 

近年さかんに議論されてきたことですが、きちんとした日本語が身につく

まえの子供に義務教育で英語を学ばせることは、外国の文化や思想を

土台にもつ根なし草を育てる可能性があります。

 

日本は明治の開国以降、ヨーロッパ文化を素直に受け入れ、

素直に学び、おかげでいろいろな進歩もしてきました。

けれどもその間、ヨーロッパ言語翻訳のための不自然な日本語を

ずいぶんと使うようになってしまったのではないでしょうか。

文語体が使われなくなった戦後はなおのこと。

以前からたびたび指摘してきたことですが

戦前の女性の会話はたおやかで女性らしい調べだわ・・・という、

一方 現代女性の日本語はふくよかさや香りにとぼしいわ・・という、

あの原因がこのあたりにある気がしました。

 

わたしの祖母くらいの世代はお勤めの経験がない人も多いのです。

いわゆるビジネス的な言葉をだから彼女たちは使いません。

企業などで使われる日本語はてきぱきと歯切れはよいですが、

論理的、説明的で、ヨーロッパ言語に似たものがあります。

日本語は本来「人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」

というような感性言語だったはずです。

 

そんなときに出逢ったのが万葉集でした。

花や草や山や川、夜空にうかぶ月などに思いをのせたり、

語りかけるように歌うものが多く、

自然と渾然一体となって境目があまり感じられません。

光や風や色彩が輝き、技巧を凝らすこともない素朴な歌柄は

心がどこまでもどこまでも広がっていきます。

私にとって、万葉集はゆたかな言の葉を育むレッスンとなりそうです。

 

どの国に住んでいるか?ということも人を変えるでしょうが、

それ以上に、どの言語を使っているか?

ということが、もしかしたら人生にとって重要なのかもしれません。

そう考えたとき、わたしたちの国には古い文学がたくさんあって、

その文章をいまでも同じように味わうことができる、

これは世界中見渡しても、たいへん恵まれたことです。

現代ヨーロッパ人は、学者以外ラテン語を味わうことができないんですから!

 

美しい歌にときめきながら、一首一首をすこしずつ摘み取って

胸の中にそっと集めていく・・・・・

万葉の森がくれた実りゆたかな今年の秋でした