☆いつまでも可愛い嫁♪☆

 

昨年は自然に導かれるように、色んなことが花ひらいた年でした

ブログにおいては、ふとはじめた源氏物語de女磨きが

みなさまに愛読していただけたこともその中の一つ。

このテーマ、どんどん掘りさげていきたいところですが、

今日は「愛」について、せまってみようと思います。

 

さて。結婚して何年たっても新鮮で仲のいいカップルもあれば

わずかの間に冷め切ってしまう夫婦もあり。

またいつまでたっても初々しく可憐な奥さんもいれば

でーんと強い恐妻もあり。

奥さんが強い家庭のほうがうまくいくという話も聞きます。

 

今日取上げるのは雲居の雁という姫君。

光源氏の息子、夕霧の正妻です。

この夫婦の結婚は現代に近いイメージです。

幼なじみの恋愛結婚、子だくさんで、夫は通い婚の形ではなく同居しています。

いとこ同士の二人のやりとりは一流貴族らしいオシャレな恋ではなく、

本音をぶつけ合い、心から親しみ合っている感じです。

たくさんの妻を持つことが当然の時代、

夕霧には側室もありますが、正妻の地位は揺るぎないもので

雲居の雁は誠実な夫をもち、順風満帆の結婚生活を送っていました。

 

しかしあるころから、夕霧は亡くなった親友柏木の邸を見舞っているうちに

未亡人 落葉の宮に心ひかれ、恋焦がれてしまいます。

このお相手は内親王ですし、雲居の雁も穏やかではいられません。

もともと気取りのない間柄ですから、この件で派手にケンカを交わすふたり・・・・。

でもわたしには、このケンカにおける態度にこそ、

雲居の雁の魅力がきらきらと光って見えるのです

 

夕霧が落葉の宮邸から届けられた手紙を読んでいる最中のこと。

雲居の雁はそ~っとその背後へ近づき、手紙をとりあげてしまいます!

このシーンは源氏物語絵巻でも有名な場面ですね。

王朝の高貴な女性は、立ち上がって歩くことはまずありません。

移動するときは、「いざる」のです。

ですからこの絵巻に描かれた姿は、かなり衝撃的なものです。

今の時代なら夫のスマホを取上げるみたいな感じでしょうか?

 

ちょっとはしたない行為ですが、そこは大貴族のお姫さま、

手紙を取上げはしたものの、すぐに読んだりはしません。

その後、忙しさにまぎれて手紙の存在すらすっかり忘れてしまう始末。

この彼女の姿、やっぱり育ちのよさですね。

おおらかで可愛らしい

 

2506s-

 

雲居の雁は夫とケンカしている間も、子どもが泣けば自分の乳をふくませたり、

いっしょにお人形遊びをしたり、お習字をしたり、

大勢のこどものお母様として働く家庭的なひと。

光源氏の妻たちとはまったく違うタイプの奥さんですが

いきいきと愛情にあふれています。

 

2人のケンカシーンからせりふを追ってみましょう。

雲居) いつもわたしを鬼、鬼とおっしゃるから鬼になってしまったわ!

夕霧) 心は鬼よりひどいけれど見た目は可愛らしいから嫌いになりきれないなあ。

 

そう、雲居の雁は年齢を重ね育児に忙しくても、若くて可憐な美貌を保っていました。

“不機嫌な女は老ける” といいますが

おとなの女性の美しさは生命感や透明感が決め手。

彼女の無邪気な明るさやゆたかな愛情が

「 いみじう愛敬づきて、 匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり 」

という みずみずしい容貌に表れています

 

さて、ここでもう一度「愛」について考えてみましょう。

「愛」という言葉の印象は、とても華やかです。

ロマンチックで浮き立つような響きもあります。

でも実際の愛って、そんなにドキドキするような煌きに満ちたものなんでしょうか?

雲居の雁は夕霧にこんなふうに語っています。

 

「 あなたなんかさっさと死んでしまいなさい。私だって死にます。

あなたなんか見ると憎らしいし、声を聞くと腹が立つし

見捨てて先に死ぬのは気にかかるし・・・・・ 」

 

これお母さん世代がよく言う、お父さんを置いて死ねないわよーってのに似てますね。

たいていの奥さんが共感する言葉ではないでしょうか?

わたしは、女性の最高の魅力の一つは母性ではないかと思います。

母性とは子どもがいるかいないかという以前に、

女の子に生まれつき そなわっている美点。

それは時に神々しいほどの強さをみせる。

その女の強さにかなう美しさなどあるでしょうか。

 

夕霧夫妻、一時は別居状態となりますが、

こんな可愛いひとを夕霧が嫌いになるはずはなく

結局ゴタゴタも次第におさまり、穏やかな日々が巡ってきます。

実際にほんものの愛というのは、この物語にあるように

地味でふつうの日常にこそあるのだと思います。

 

長年連れ添ったご夫婦のどちらかが欠けた場合、

ふと思い出すのは派手なエピソードなんかではなくて

ハンカチをもった?

車に気をつけてね。

今日のお魚おいしいわねえ。

・・・・・・そんな何でもないありふれた会話なんだとか。

 

本物の愛を生きている家族には「愛」と言う言葉は頭に浮かんでいないのだ、

と聞いたことがあります。

子どもが体調を崩し、食べたものを戻してしまったときなど、

お母様は自分のことなど全く飛んでしまって、無心で世話をしてくれるもの。

そんなとき、これが愛だわ!なんて意識しているでしょうか。

愛のまっただ中にいる人にとって、愛は意識する必要もないほどカジュアルなもの。

 

モンゴメリの小説にこんな美しい文章があります。

「 幸せで楽しい日というのは、素晴らしいこと、驚くこと、

胸ときめくことがおこる日ではなくて、

さりげない小さな喜びをもたらす一日が、今日、明日と、静かに続いていくことなのね。

まるで真珠がひとつ、またひとつと、そっと糸からすべりおちるように。 」

『アンの青春』にある、私の好きな言葉です。

地道な日々の暮らし、目の前のお仕事、身近にいる人々に

真摯に向きあうこと。

根気よく愛をそそいでいくこと。

それはいつか自分のもとへ、たくさんの星が降るようにかえってきます。

特に40代からの幸せは、それまでとは違った深さでやってくるように思います。

歳を重ねていくって、ありがたく意義深いことです。

ことしもまた一日一日、やわらかく光る真珠を連ねて

美しいパールのネックレスをつくり上げていきたいですね。

どっしりとした、 確かな人生 というものを