☆「美」とは?☆

 

「 人生を喜んで生きていく人が増えてほしいと思います。

そのために必要なのは、本ものとの出会い。

人でもものでも、本ものが人を豊かにします。」

(以下太字すべて抜粋)

 

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辰巳芳子さんのこのご本が好きで

ときどきページをめくっては幸福な気持ちになります。

梅雨の季節はひとり静かに読書するのが愉しく

ここ数年は修道院の本をこの雨の季節になると開いたりします。

なぜかしら 聖堂のひんやりしたイメージと重なるからかしら。

 

わたしは学校で、シスターに勉強を教わりました。

ですから仏教や神道だけでなくカトリックにも恩恵を感じています。

学校のシスターたちは威厳と品格をもって

指導もほかの先生方より厳しいものでした。

あのころは反発心を抱くこともありましたが、いまとなっては

感謝の気持ちばかり浮かんできます。

 

修道服に身をつつみ胸に十字架をさげたシスターたちのことを

シスターは神様と結婚したのでしょう・・・?

なんて私たちはささやき合ったりした。

生涯 世俗を離れ、厳しい修道生活を乗り越える方々。

わたしたちを実の娘か妹のように親身に教育してくださった。

愛あればこそ、授業もとことん厳しく

礼儀作法なども鍛えてくださった。

 

そんな修道院の気風から校内は名家の子女も多かったにかかわらず

華美でなく清楚に つつましく勉学第一。

大切なものはなにか?を生活を通して教えていただいたと思う。

人生とはお遊びではないということ、

本ものとはなにかということを、

シスターの生きる姿勢が語っていたのだと思う。

 

この辰巳さんも、ミッションスクール時代に出逢ったシスターの姿を

人生の支えにしてこられたようです。

修道院の裏庭の木陰で黒白の修道服の円陣をつくり

マザーの霊的朗読を聴きつつ、針仕事をなさる

シスターたちの光景を目に焼きつけて・・・・・

 

「 したたる緑と黒白の円陣の静謐の極みは、余地のない『美』そのものでした。

学校行事には、花と香と縫い取りに色取られた美々しい式がありました。

しかし魂に沈潜したのは、あの余分のもののない静けさでした。

何かにつけ、とりわけこころが高ぶる時

『貴女の喜びは其処にあるのか』とあの情景が

今もひるがえる私の袖をひくのです。 」

 

この文章があまりに典雅に美しくて、読むたび心が清められ静まります。

美とはなんなのか

貴女のよろこびはそこにあるのか・・・

貴女のよろこびはどこにあるのか・・・

生きるうえで一番のよろこびって、なんでしょう?

 

一日一日を美しくていねいに過ごすこと。

良心にしたがって暮らすこと。

それこそ 女性にとって最上の喜びなのではないでしょうか。

本ものの喜びは自分が得することなどではない、

人としての道をまっとうすること以上の充足感などないはずです。

 

「 自分のいのちを最大限ベストな状態に保って、自分以外のいのちの

ためになろうという想いは尊いもの。

人の生きる道だと思います。 」

 

こうした想いに共感できる人って素敵。

どんな言葉にしびれるかで、人ってわかるから。

 

さて、本ものだけが人を本ものにする、と辰巳さんはおっしゃいます。

辰巳さんが以前テレビでおっしゃっていましたが

料理も人間も下ごしらえが大事だそうです。

お料理でも時を逃すと良い下ごしらえは出来ない、

だから人間も勉強するべき時に、時を逃したら駄目だと。

 

人格を形成する成長期に ひたむきに何かに取り組んでいたか、

本ものと触れてきたかどうか、

それが人生を分かつのではないでしょうか。

情報があふれる現代ではなおのこと。

ですから高校生がずっとスマホにかじりついているなど不幸なことです。

大人になってもHOW TO本や自己啓発本ばかりを

ひっかえとっかえ読んで一向に虚しくならない人など

本ものがおそろしく足りなかった人生なのでは、と思われます。

一度きりの人生、もっと大切にしなくては・・・・・。

 

白洲正子さんが本ものについて語っていたことも私の胸につよく残っています。

生粋のお姫さまだった彼女でも

神が宿るほどの芸を観る機会は多くなかったそうです。

たしかバレエのアンナ・パブロワとお能の友枝喜久夫さんだけだと

おっしゃっていたと記憶しています。

 

私も10代のころ 森下洋子さんのバレエを観にいって

ほかとは次元の違う妖精のような舞踊美に

こんな美しいものを一瞬だって見逃してはいけない!

と まばたきを惜しんで観たことがあります。

バーン=ジョーンズの絵画「眠り姫」を観たときは、きらきらした

魔法の粉が降ってくるような気がして驚きました。

先日の長次郎のお茶碗も 圧倒的な非日常の中に存在していました。

芸術はなんでもみればいい、ってものでもないかもしれません。

 

「人でもものでも、本ものとの出会いが 

人生を本ものにするのだと思います」

 

ここで辰巳さんがいう本ものとは、

有名だとか成功者という意味ではないでしょう。

人として本ものになること。

それでこそ「生きた」と言えるのではないでしょうか。