東京国立博物館の茶の湯展へは
樂家の展覧会から日をおかず出かけました。
こちらはこちらでとても良かったです。
トーハクの展覧会というのはいつも重厚な学びがあります。
今回は茶の湯の歴史を、名品を通して通観する内容。
日本文化の結晶ともいえる
茶の湯の全体像をみることで
ぬっ・・と大いなるものが顔をみせるようです。
足利将軍家に愛された格調高い唐物からはじまって、
侘びの世界の芽生え、千利休の大成を経て、
江戸~明治までのお茶文化の壮大な展覧。
茶道美術がこんなに一度にそろう機会もそうそうない贅沢なもの。
翡翠のように輝く青磁の美しさや
油滴天目のきらめきが心をときめかせます。
そして、わびさびが入ってくるあたりから新しい美が芽生え、
文化が深まっていく流れと人々の関わり合いが慕わしく感じられました。
今回も際立っていたのが長次郎のお茶碗です。
これはやはり別格です。
ほかが美術品や芸術品ならば
これをその括りに入れるにはまったく異質な感じです。
美しいわけでもない、
崇高なわけでもない、
かといって魔物のような邪気があるわけでもない。
あいかわらず見込みに広がっているものに無限を感じ、
自分の人生を問いただされるようでした。
赤茶碗はほのぼのと慕わしく、黒、とくに「ムキ栗」や香炉などは
見るものに重々しく問いかけてきます。
後世のひとびとへの命題ともいうべき存在感。
私はふと「父母未生以前本来の面目」というのが思い浮かびました。
漱石の『門』にでてくることでも有名なあの禅語です・・・。
ポスターでみて期待していた作品よりも、
実際に惹きつけられるものが違っていたことも新鮮でした。
なにごとも本物を見なくては話にならないもので。
光悦のお茶碗がとりわけ魅力的でした。
光悦に関しては先日の樂家の展覧会で見たものより
こちらのほうが好みで、かなの名手光悦ならではの美しい器でした。
藤原の仮名の繊細な筆致にも似たゆかしさ。
そして、あいかわらずキラリと光っていた仁清。
色絵鱗波文茶碗、色絵玄猪香合など、
都会的洗練さが野々村仁清の真骨頂。
はんなりとした「都のかほり」なのです。
明治の実業家の茶道具も豪華で、そして粋でした。
わたしが出かけたときは平瀬露香のコレクションが展示されていました。
開国後、一時は途切れそうなほどか細くなっていた茶道文化も、
明治の財界人たちによってみごとに盛り返し
お茶は一流財界人必須の教養、ステイタスとなり、
お茶室が名士たちの重要な社交場となっていったという・・・。
まるで戦国のお大名が
お城よりお茶碗を欲しがった頃を彷彿とさせるようですが、
外国と互角にわたりあった政治家や実業家たちが、
一方の軸足をしっかり日本の伝統文化に置いていたことは見逃せません。
ネット社会となった現代は、瞬時に世界と繋がれる一方、
自国のアイデンティティを持っていないと
やっていかれない時代が到来するだろうとも、言われています。
本来「国際化」というのは、自国の文化に対する
見識をきちんと持っていなくては叶わないもので、
明治の財界人にわれわれが習うべきことは少なくないように思います。
せわしない日々を送ることの多い現代ですが、
茶筅でお茶を点てることを大切にしたいですね。
あらゆるお茶の中でもお抹茶はとくべつ「非日常」を運んでくれますから。
どこか浮き足だったものが沈められて
鳥の声だとか雨音だとか
不思議とココロにしみこんでくる
心の耳が澄んでくる・・・
それが茶の湯のもつ神秘ですね